「平沢屏山とその時代」展から/奥野進

「平沢屏山とその時代」展から/奥野進

いま、なぜ、屏山なのか

 市立函館博物館では、2022年6月28日から10月16日まで、企画展「平沢屏山とその時代」展を開催している。2022年は屏山生誕200年にあたり、以前から注目していた屏山を、ぜひ取り上げたいとの思いがあった。函館博物館での屏山作品を中心とした展示は、1982年(昭和57年)以来、ちょうど40年ぶりで、久々の開催となった。

 平沢屏山(1822~1876年)は、現在の岩手県花巻市の大迫 (おおはさま)に生まれ、弘化年間(1844~1848年)に箱館に渡り、絵馬を描き生計をたてた。いつしか、アイヌの人びとやその文化を描くようになり、「アイヌ絵師」として名を挙げ、亡くなるまで箱館(函館1)で過ごした。時にはアイヌの人びとと生活を共にし、アイヌ文化への理解も深かったらしく、その正確な描写は、アイヌ風俗を今に伝える貴重な手がかりにもなっている。

 会期中、知人がある博物館の観覧者にこの企画展を案内してくれたのだが、その観覧者から「[屏山の]絵を見ると悲しくなる」という言葉を聞いたという。アイヌ絵2が、歴史やアイヌ風俗を伝える資料として用いられる一方、和人3とアイヌがたどった歴史的な経緯のなかで生み出されたものであり、屏山といえども和人が描いたアイヌの姿は、アイヌの人びとには受け入れがたい側面もあるためだ。

 箱館(函館)で活躍した絵師屏山の絵をどう見るのか、まさに今回の企画展の出発点だった。

 

【図版1】企画展「平沢屏山とその時代」展チラシ

 

【図版2】企画展「平沢屏山とその時代」展 展示風景

 

【図版3】企画展「平沢屏山とその時代」展 展示風景

 

アイヌ文化と函館

 近年、アイヌ文化への関心が高まりメディア等で紹介される機会も増えてきたが、函館という地域をながめてみると、その関心は北海道内の他地域と比べると低いように感じる。早くに本州からの和人の移住が進んだため、アイヌの人びとの歴史や文化を体感する機会があまりないことが影響しているのではないかと思う。

 一方で函館は、開拓使による収集資料や馬場脩(おさむ)収集の「馬場コレクション」、児玉作左衛門収集の「児玉コレクション」など、アイヌの人びとに関する資料を豊富に所蔵している。あまり知られてはいないが、屏山をはじめとしたアイヌ絵もまた函館(函館市中央図書館や市立函館博物館)が多数所蔵している。いわばアイヌ関係資料の一大集積地だ。

 コレクションの一部は、主に函館市北方民族資料館で展示されているが、そこには現代に生きる、現代につながる視点を感じさせるものはない。

 地域のなかで、どのようにアイヌ文化を位置付け、屏山のアイヌ絵をどう扱うかもまた、地域の「これから」を考えるうえでは、大きな課題といえる。

 

「屏山」の生きた時代

 今回の企画展で注目したのは、屏山の絵は、江戸時代後期から明治初期にかけて、箱館(函館)で生み出された、という事実だ。

 これまでにも、平沢屏山という絵師や作品が紹介されることはあったが、そこには江戸時代後期から明治初期にかけての箱館(函館)という、時代に注目する視点や、地域的な視点はあまり感じられない。どちらかといえば、「美術作品」もしくは「アイヌ風俗画」として、「描きかた」や「描かれているもの」に注目が集まり、あわせてそれを描いた屏山が紹介されてきた、といった感じだ。

 しかし、個人を通して生み出された作品は、個人の置かれた環境とも無関係ではいられない。屏山は、どのような時代に生き、ここ箱館(函館)で何を思いながら絵を描いたのか。

 屏山の生きた時代は、政治的には、ロシアの南下政策や対アイヌ民族への支配のため、幕府が蝦夷地を直接統治するようになった時代に重なる。経済をみれば、東まわり航路・西まわり航路が確立され、国内海運が活発化するなかで、蝦夷地が日本国内の経済活動に巻き込まれていく時代とも見ることができる。それは同時に、アイヌの人びとにとっては、日本の政治・経済に組み込まれていく時代でもあった。

 箱館は、1855年(安政2年)には、前年に締結した日米和親条約によって実質的に開港地となり、1869年(明治2年)に「蝦夷地」は「北海道」、「箱館」は「函館」になった。

 この間、幕府は箱館奉行を置き、箱館を蝦夷地支配の拠点としたため、箱館のまちは次第に都市へと変貌を遂げる。まさに、激動の時代だ。

 屏山は、生きていくために経済的な発展めざましい新天地箱館に渡り、そこで求めのあったアイヌ絵を描き、生活の糧とした。箱館で、大商人福島屋杉浦嘉七に出会い、その支援を受けるたことや、屏山のアイヌ絵が外国人の間で評判となり、海外の博物館や美術館等に作品が収蔵されている事実は、当時の箱館(函館)という地域のたどった軌跡の中で成立しえたものだ。

 

【図版4】奥州箱館之図(市立函館博物館蔵)

 1860年代初頭に描かれたと見られる絵図で、奉行所や弁天台場、五稜郭、運上所のほか、ロシア・アメリカ・イギリス・フランスといった各国領事館などが描かれ、開港後の箱館の様子がよくわかる。1850年(嘉永3)の箱館の人口は、 9,480人で、松前1万4,133人には及ばなかったが、周辺地域を含めるとすでに箱館が 2万2,383人で、松前の2万1,879人を凌ぐようになっていた。

 

【図版5】函館の市街を一望するパノラマ写真(函館市中央図書館蔵)

 屏山の没年にあたる1876年(明治9)に撮影されたもので、この年の函館の人口は2万728人、1850年(嘉永3)に比べると約2倍へと急増していた。江戸から明治へ移りゆく街並みを確認することができる。

 

【図版6】屏山が店を構えていた内澗町付近(函館市中央図書館所蔵写真の部分拡大)

 現在の元町公園坂下から金森赤レンガ倉庫に至るまでの港に面した地域。当時は産物会所や場所請負商人、問屋などが軒を並べる繁華な場所だった。

 

屏山の見たもの

 地域で生活をする者として、その文化を扱う者として、地域の歴史や文化、函館ひいては北海道の歴史や文化については、移住者でもある自身の経験からも、知ってほしいと思うこと・モノはけっこうある。

 「北海道」は一般的な日本史では教わらない、地域の歴史があり、日本という国を考える上で、重要な意味と可能性を持っていると考えるからだ。

 アイヌ絵は、激しく変化する時代のなかで、和人とアイヌの人びとが接触した結果、生み出されたものでもある。絵は、描いた和人側の意図や興味にしたがって描かれたものが大部分で、そこには和人とアイヌの人びととの関係性が垣間見える。それは、現在アイヌ施策として推進されている「共生」を意図したものではなく、アイヌの人びとにとっては「悲しい歴史」でもあった。

 屏山はアイヌの人びとと共に生活し、親しく交わるなかで、アイヌ絵を描いた。その絵はアイヌ風俗を現代に伝える一方、多くの表情豊かな子どもが登場するなど、屏山ならではのあたたかな視線も指摘されている。屏山がどのようなまなざしでアイヌの人びとを見ていたのかは明らかではないが、無意識に時代の意識に支配される一方で、人間屏山の優しさが垣間見える一面でもある。

 今回の企画展で、タイトルを「平沢屏山とその時代」としたのは、地域的、時間的な視点、まさに屏山が生きた時代のなかで彼の残した作品や人間としての屏山を見つめることを意図したためだ。

 時代のなかで、「人間」屏山は何を思いながら、絵を描いたのか。
 「共生」に向けて、アイヌの人びととの「これから」を考えるなかで、屏山の作品を見たとき、それらの作品は、現代の私たちに大切なメッセージを投げかけているように感じている。

 

【図版7】ウイマム図絵馬(市立函館博物館蔵)

 ウイマムと呼ばれる松前藩主への謁見儀礼の一場面。背後に大きく描かれた「丸に武田菱」は松前家の家紋で、アイヌの首長らは、貴人に対する礼をとって手をつなぎ腰をかがめて歩く姿で描かれている。当時の和人とアイヌの人びととの力関係を象徴する構図となっている。

 

【図版8】アイヌ風俗12ヶ月屏風 7月~12月(市立函館博物館蔵)

 屏山晩年の代表作。漁を捕る姿(7月)、イオマンテ(熊送り 12月)など、アイヌの人びとの伝統的な生活も描かれるが、浜辺での作業(8月)の遠景には和船が描かれ、アイヌの人びとの生活に影響を及ぼす和人の姿が垣間見える。

 

【図版9】様々な場面に表情豊かな子どもたちが登場する 図はアイヌ風俗12ヶ月屏風の8月。力を込めて魚を持ち上げる様子が良く伝わってくる。

 

 

奥野 進(市立函館博物館学芸員)

 

脚注

  1. 1869年(明治2年)から箱館は函館とされた。1869年より前は箱館とした。
  2. 和人がアイヌの人びとを描いた絵の意味で用いた。
  3. 本州を中心とした地域から渡ってきたアイヌ以外の人びとの意味で用いた。

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