1972年冬、幻の〈雪の現代彫刻展〉/古家昌伸

1972年冬、幻の〈雪の現代彫刻展〉/古家昌伸

1 チハーコヴァーの手紙――〈雪の現代彫刻展〉とは

「チハコバって知ってるかい?」。小樽在住の美術家阿部典英から、こう尋ねられたのは、新型コロナ禍が一段落していた2021年春だったか。阿部いわく、1972年の札幌冬季五輪直前のさっぽろ雪まつり会場で、〈雪の現代彫刻展〉という野外美術展が企画された。「僕も参加する予定だったが、直前になって中止されたんだ」と。聞き慣れない響きの「チハコバ」は、この彫刻展のキュレーターで、チェコ出身の女性美術評論家の名前であった。

 同じ名を、少し前に北広島在住の美術家岡部昌生からも聞いていた。彼は彫刻展には関与していないものの、名前は覚えていた。ちなみにふたりとも「チハコバ」と呼んだが、ここでは原語に近い当人の表記チハーコヴァーを使う1

 しばらくして阿部から〈雪の現代彫刻展〉開催を控えた72年1月初めにチハーコヴァーから届いたという書簡を見せてもらった(図1)2

図1 阿部典英宛チハーコヴァー書簡(1972年1月6日消印)

 書簡の内容を一部抜粋する。

○「雪の現代彫刻展」をSUBTITLEに「HOMAGE TO SNOW ‘72」は主題としました。
○会期は一月27日―30日に決定したので、札幌の滞在期間は25日―28日、すなわち四日間の予定です。飛行機を25日午前8:10に予約しました。
○会場は先日、お話したように、札幌大通り西一丁目(テレビ塔の広場)です。場所の図面を同封しますが、作品の配置について一応このように決めましたので、ご了承ください。
○先日、受け取った図面を札幌へ送りましたが、雪と氷の量を正確に十日までお知らせ願いたいと思います。そして、氷を使いになる方のために、氷はかたまった形で運んでもらえるそうです。その他の素材について、一応北海道立美術館の竹田さん(筆者注――武田厚、注9も参照のこと)にお願いしましたが、ここで私の確認のためもう一度、何を手配すれば良いか、書いて下さい。
○至急お願いしたいことですが、カタログを造る時期になりましたので、各人、雪というテーマと素材に対するアプローチと、この美術展に参加する目的や意義についてご意見を四百字づめの原稿用紙一枚にまとめて、顔写真2枚とともに十日までにお送りください。

阿部典英宛チハーコヴァー書簡(1972年1月6日消印)

 彫刻展の準備で近く札幌を訪れる、作品配置はこのようにしたい、との趣旨で、出品作家や手描きの配置図が記されている。作家の名を見て驚いた。当時、第一線で活躍していた美術家たちばかりだった。

 田中信太郎/高松次郎/李禹煥/下谷千尋/河口龍夫/関根伸夫/一ノ戸ヨシノリ/阿部典英

 高松、李、関根は、国際的にも注目された「もの派」の中心メンバー。高松は前衛芸術グループ「ハイレッド・センター」の一員でもある。関根は1970年のヴェネツィア・ビエンナーレに参加し、72年は田中が出品作家となった。下谷、川口も美術史に名を残している。そこに加わった一ノ戸、阿部は頭角を表してきた地元の若手造形作家であった。

 しかし前述の通り〈雪の現代彫刻展〉は中止された。72年1月26日の北海道新聞朝刊に載った、第23回さっぽろ雪まつりの特集3。会場の大通公園の見どころを紹介する記事に〈一丁目は『雪の現代彫刻展』〉の一文が見える。開幕予定の前日の新聞にこう載ってしまったのは、急転直下、中止が決まったからだろうか。

 北海道美術史のバイブルと言える吉田豪介著『北海道の美術史―異端と正統のダイナミズム』にも言及はない4。そこで、この幻の展覧会の詳細を調べてみることにした。

2 展覧会の企画意図――チハーコヴァーの証言

 当時の経緯を最もよく知る、ヴラスタ・チハーコヴァー本人の取材はほどなく実現した。彼女は現在、チェコ美術評論家連盟の会長を務めている。メールで何度か情報交換したのち、2021年11月20日、オンラインでプラハと札幌を結んで約1時間にわたり話を聞いた。彼女は、異国での半世紀前の出来事について問われたことに驚きつつ、この展覧会の企画があったこと、直前に中止したことを認め、当時を振り返ってくれた。

 これだけすばらしい(参加予定)作家ですので、観光で来る外国人にも紹介したいなと思った。それまでの(雪まつりの)内容を見ると、(雪像は)子供向けのテーマが多かった。大人も評価するような内容が抜けているんじゃないか、と思っていた。両方の企みがあったんです。日本の現代作家を紹介するのと、大人にはもうちょっと真面目なものを与えたかった。実現したらセンセーションになっていたと思いますね。

――チハーコヴァーへのインタビューより(2021年11月20日)

 チハーコヴァーによれば、高松次郎は彼の代表作《影》のシリーズを、雪像に投影するようにアレンジした、いわば札幌バージョンを用意していたという。もし展覧会が実現すれば大きな反響があったことは想像に難くない。

 チハーコヴァーは当時25歳。『美術手帖』『芸術新潮』『朝日ジャーナル』などに美術評を執筆するとともに、さまざまなアートプロジェクトにキュレーターとして関与するなどアクティヴに活動していた5。実は冬季五輪で通訳のリーダーの仕事も請け負い、札幌には結局、1ヶ月ほど滞在していたという。「いろんな方にお会いして、ずいぶん社交的に過ごしてたんですよ」と朗らかに笑った。

3 1972年の北海道美術界――チハーコヴァーの批評性

 1960年代、北海道の美術界の主流は、大正末期創立の北海道美術協会(道展)と、戦後まもなく発足した全道美術協会(全道展)の二大公募展であった。67年に道内初の公立美術館「北海道立美術館」が開館。大規模でアカデミックな展覧会が美術ファンを増やすとともに、札幌市内に相次いで開設されたギャラリーで個展やグループ展が開かれ、活況を見せていた6。さらに72年にアジア初の冬季五輪の札幌開催を控え、突貫工事で地下鉄が建設されるなど祝祭ムードにも満ちていた。

 だが一方で、若手美術家たちは、公募展を中心とする画壇の保守的傾向にいらだちと危機感を覚えてもいた。状況の打破を掲げて1970年5月に旭川で行われた展覧会「EXHIBITION ’70 HOKKAIDO」は、阿部や一ノ戸、岡部をはじめ、公募展に飽き足らず、北海道が「中央の美術状況から取り残されている、時代とのコミュニケーションが断絶している」ことを憂える前衛志向の面々が関わった6。このグループ展を企画した吉田は、自らの半生を振り返る新聞記事で、準備のため一ノ戸らがいる旭川に出向き、行きつけのバーで「公募展だけに北海道のかじ取りを任せては真の創造活動は生まれない」と気勢を上げたと振り返っている7

 チハーコヴァーは、あらかじめこうした北海道の美術状況を踏まえて〈雪の現代彫刻展〉を企画したわけではない。ところが、展覧会が中止となってまもない時期の『美術手帖』に彼女が寄せた一文では、札幌冬季五輪の芸術行事について取り上げ「日本の現代美術、あるいは札幌在住の作家たちが、こういう機会に無視されたことは、私自身、必ずしも悲劇だと思っていないが、グルノーブルの場合と比較したり、札幌のふだんの状況を考え合わせると、やはり気になる」と批判した8。しかも同じ稿で、60年代後半に動き出した現代美術のグループ展「組織」「オード」「北緯」の活動を詳報するなど、道内の美術関係者に綿密な取材をしなければ、うかがい知ることができない動きにも言及している。具体的に誰に取材したかは記憶にないという9

 北海道と欧米の美術家たちの交流は、前述の道立美術館を前身とする「北海道立近代美術館」が開館した翌78年の企画展「現代フィンランド美術・5人の作家展」や「20世紀カナダ絵画展」(81年)が嚆矢とされる。各国の現代美術をリアルタイムで紹介した展覧会は、若手美術家たちに「独自の精神風土やたくまざる地方性といったものを再発見」する機会を与え、1970年代末から80年代にかけての「グループTODAY」の活動につながる。TODAYは81年、84年、87年に道内では初めてとなる国際展「SAPPORO TORIENNALE」を開催し、作家たちが主導する国際的な美術交流の源流となる。吉田はTODAYについて「ここにも、明らかにこれまでのグループ展とは異なった視点がある。それは脱地方へ向かいながら、創造活動における地方性(民族、環境など)そのものへのこだわりの姿勢といえようか」と述べた10

 時系列を整理しよう。国際的にも注目される作家を招いた〈雪の現代彫刻展〉の企画は、「脱公募展」を掲げた60年代後半からの旺盛なグループ活動の延長線上にあり、しかも70年代後半に現れる地方性を見据えた新たな潮流の出現を予見させる時期に位置する。北海道の美術状況を鑑み、かつ札幌冬季五輪という国際的に注視される、またとない機会を捕まえたチハーコヴァーの先見性が際立つ。

4 中止の真相に迫る

 では〈雪の現代彫刻展〉中止の理由は何か。阿部は「スポンサーの問題と聞いていた」と記憶をたどる。一方、チハーコヴァーは、市当局からストップがかかったと説明した。「会場の大通公園の下には地下街があり、大きな氷の作品は重みに耐えられないと言われた。それと、雪や氷に着色する作品の展示も予定されており、これは環境の問題で難しいと判断された」と述べた。スポンサーについての記憶は薄いようだった。

 先述の雪まつり特集と同じ紙面に、ある記事を見つけた。開業したばかりの地下街を押しつぶす心配があるので、大きな荷重をかけられないが、重機を使って造る大雪像でなければ問題にならないだろう、とのコラムだ11。〈一丁目が雪の彫刻展、二丁目は氷彫刻展、三丁目は氷像展でまず安心〉とあり、荷重の問題をクリアしているとの説明。当局がチハーコヴァーに伝えたという「重さの問題」の判断と根拠は探し出せなかった12

 その後、チハーコヴァーが1980年に日本で刊行したエッセイ集『ニッポン審判』に、中止の理由が記されていることがわかった。同書の「とんでる男」の項で、雪まつり会場の「すべての展示空間がぎっしりと政治家と企業に切り売りされ」ており、「私はこの雪まつりに何とかして日本の新しい彫刻家、造形作家たちの制作と発表の場を提供してもらおうと奔走したが、会社のPRにかかわらないものとしてそっけなくしりぞけられてしまった」と彼女自身が書いていた(図2)13

図2 ヴラスタ・チハーコヴァー『ニッポン審判―ぬけがけ社会の構造』(新評社、1980年)

 2022年9月30日に再びチハーコヴァーへのオンライン取材を試みた。残念ながら市の言い分やスポンサーがどのような企業であったのか、記憶の細部を呼び起こしてもらうことはかなわなかった。ただ、総合的に考えればスポンサーについても行政当局についても、現代アートという「何かよくわからないもの」への無理解が背景にあったのでは、という推論で彼女と私の見解は一致した。

5 先鋭的なアート展の困難

 再び北海道美術史を顧みる。1946年に旭川を拠点として「北海道アンデパンダン美術連盟」が動き出した。前衛美術の面白さを伝え、歴史に残る「読売アンデパンダン展」の創設より3年も前だった。以来、53年に「ゼロ展」(56年「前衛展」に改称)、55年に「黄土」、61年に北海道ゆかりの在京抽象作家による「北象会」、63年に「組織」「北緯」など、現代アートのグループが続々と誕生した。道外作家との交流も綿々と続いていて、最先端の美術を受け入れる素地があっただけでなく、「中央」の模倣にとどまらない北海道独自の現代アートを発信しようと試行を繰り返していた9 14

 しかしスポンサーや行政、一般市民となるとどうか。たとえばチハーコヴァーが槍玉に挙げた札幌冬季五輪の一連の芸術行事は、確かに保守的な側面があった15。その状況に一石を投じるはずの展覧会を成し遂げられなかった悔しさは、彼女が同年6月に再び阿部に送った、リベンジを期す手紙にも現れている(図3)16

図3 阿部典英宛チハーコヴァー書簡(1972年6月1日消印)

 現代アートは表現の過激さから、創作の意図を誤読されたり、物議を醸したりという側面がある。先鋭的な展覧会を開催する困難さは、21世紀の現代でも変わらない17。半世紀前の極寒の札幌で、その困難を乗り越えようとがむしゃらに突進した若きキュレーターに敬意を表したい。

古家昌伸(編集者/アートライター)

 本稿は、京都芸大芸術学部アートライティングコースの卒業研究として2023年1月に提出したものを改稿した。


脚注

  1. ヴラスタ・チハーコヴァー(Vlasta Čiháková Noshiro)は1944年生まれ。66年に来日し、日本大学芸術学部、東京芸術大学に留学したのち、美術評論家・キュレーターとして活動する。日本に約20年滞在し、パートナーが日本人だったこともあって日本語も堪能である。80年代以降はプラハを拠点として両国間の交流にも寄与している。2017年に国立新美術館開館10周年とチェコ文化年を記念して開かれた《ミュシャ展》では共同監修者も務めた。チェコ美術評論家連盟会長。
     日本での著書は『ニッポン審判―ぬけがけ社会の構造』(新評社、1980年10月)、『プラハ幻景 東欧古都物語』(新宿書房、1993年6月[新版、原著は1987年])などがある。
  2. 阿部典英宛チハーコヴァー書簡(1972年1月6日消印)。参加予定作家の並びは書簡のメモの順通り。メモは姓のみの表記だったが、作家はこの通りであることを筆者に確認済み。
  3. 「さっぽろ雪まつりダイジェスト」北海道新聞朝刊15面、1972年1月26日。
    〈一丁目は『雪の現代彫刻展』。生きたヤギを放し飼いにするなど奇抜なアイデアが目を引きそう。〉との解説がある。
  4. 吉田豪介『北海道の美術史―異端と正統のダイナミズム』共同文化社、1995年10月。
  5. 参照したチハーコヴァーの主要な雑誌掲載の論考には、
    *小田襄、V.チハーコヴァー(構成:針生一郎)「そのときチェコでは―危機のなかの芸術家たち」『美術手帖』1968年12月。
    *チハコーバ・ブラスタ「屈辱の日 八月二一日―チェコ事件から一年―」『朝日ジャーナル』1969年8月。
    *V・チハーコバー「さながら雑色のモザイク模様」『美術手帖』1971年12月。
    *ブラスタ・チハコバ「李禹煥に「出会い」を求めて」『近代建築』1973年11月。
    *ヴラスタ・チハーコヴァー/ジョセフ・ラヴ/李禹煥「《座談会》東と西―そのこころと美術」『美術手帖』1974年1月。
    *ブラスタ・チハーコヴァー「物質と非物質との間」『近代建築』1974年10月。
    *チハーコヴァー・ヴラスタ「塩と蜂蜜のあいだ」『美術手帖』1980年3月。
    *ヴラスタ・チハーコヴァー「プラハ生まれ、プラハ暮らし」『芸術新潮』1999年11月。
    などがある。
     チハーコヴァーの日本滞在当時から現在に至るまで親交がある美術家の中山正樹(埼玉県在住)からは、彼女を柱とするグループが制作し、自ら巻頭言を書いた『EXPERIENCE BOOK』(1978年12月)、チハーコヴァーを囲んだ座談会を掲載した『ART FIELD – 芸術の宇宙誌04』(2007年3月)のほか、彼女が手がけた盟友の作家論「身体測定の芸術」を載せた『中山正樹作品集〝BODY SCALE〟』(2018年1月)を頂戴した。
     チハーコヴァーにも言及している『中山正樹オーラル・ヒストリー』(坂上しのぶ、加治屋健司によるインタヴュー、2010年2月13日、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ http://www.oralarthistory.org/archives/nakayama_masaki/interview_01.php  2022年12月20日参照)からも示唆を得た。
  6. 吉田、前掲書、pp.170-171。
  7. 〈私のなかの歴史―美術家との日々 美術評論家 吉田豪介さん〉12 グループ展企画 「酔える運動」作家と共に、2015年5月26日、北海道新聞夕刊。
  8. ブラスタ・チハーコヴァー「オリンピックの顔とオリンピックでない顔 北海道の現代美術家たちにふれて」『美術手帖』1972年4月。
  9. チハーコヴァーは阿部宛の書簡で〈雪の現代彫刻展〉の「北海道側のプロデューサー格」として、北海道立美術館の学芸員だった武田厚の名を挙げた。この点について、多摩美大客員教授を務める武田に当たったところ「記憶が鮮明でない部分もある」としつつも、当時はチハーコヴァーの企画提案に対して「〝中央美術界〟に北海道の文化的な土壌を荒らされてはたまらない」と一種の嫌悪感を覚えたと振り返った。そのころの北海道には〝中央〟からの自立を訴え、独自の文化発信を打ち出す「北海道独立論」が渦巻いていたことも背景にあったと思う、と述べた。とはいえ武田は、その後もチハーコヴァーとは良好な関係を築いてきたという。

    『日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ 李禹煥インタヴュー2』(中井康之、加治屋健司によるインタヴュー、2008年12月19日 https://oralarthistory.org/archives/lee_u_fan/print_02.php 2023年5月29日参照)では、〈雪の現代彫刻展〉にも参加するはずだった李禹煥がチハーコヴァーに言及している。米国人批評家のジョセフ・ラブ(Joseph Love)とヴラスタ・チハーコヴァ(Vlasta Chihakova=表記は当サイトに準じた)の名を挙げ、「(1968年頃)こういう人たち、外の人たちと私は近かった。その親しくなる理由は、やはり三人とも外の人間だから。外部の人たち同士が日本の美術状況について発言したということ。日本の美術にとって、外の空気が入った時期なんです。」と述べた。続けて「だから僕のみならず、ラブさんが入ったとかチハーコヴァさんがいたとかという、外の空気が入ったことに対して、面白くないという、一部の声をよく聞きました。」とも証言している。

  10. 吉田、前掲書、pp.262-263。
  11. 「地下街上は重量制限」北海道新聞朝刊〈雪まつりミニニュース〉1972年1月26日。

    〈大通り一-三丁目は昨年秋、さっぽろ地下街が完成して一年ぶりに復元されたが、大雪像は地下街を押しつぶす危険があるため作れなくなった。/地下街は厚さ一・八メートルのコンクリートの上に三㍍の土をかぶせてあるだけで、一平方㍍当たり一トン以上の荷重は危険-という計算。大雪像の重量は七百トンから九百トン。底辺の広さを四百平方メートルとしても四百トンがギリギリでちょっと無理。今回は一丁目が雪の彫刻展、二丁目は氷彫刻展、三丁目は氷像展でまず安心だが、将来、名物の大雪像も姿を消さざるをえないかも〉

  12.  1972年のさっぽろ雪まつりに関わる札幌市・札幌市議会の公文書は残っていない。『さっぽろ雪まつり30年史』(同30年史編集委員会編集・発行、1979年)の「第23回(昭和47年1月27日〜30日)」の項には、「会場は大通会場が西一丁目から西十丁目まで使われ」と明記されている。しかし、公式記録のひとつと見られるパンフレット「第11回冬季オリンピック札幌大会 さっぽろ雪まつり」(1972年)には、展示された雪像の写真がブロックごとに掲載されているものの、西一丁目については写真も何の言及もない。
  13. ブラスタ・チハーコヴァー『ニッポン審判―ぬけがけ社会の構造』(新評社、1980年10月)「とんでる男」より抜粋。

     たとえば、札幌の雪まつりについても、こんなことがあった。この雪まつりは、そのすべての展示空間がぎっしりと政治家と企業に切り売りされていたが、私はまずそのことにおどろいた。一センチもあまさずに、金をだすさまざまなスポンサーに空間がみごとに切り売りされているのである。
     私はこの雪まつりに何とかして日本の新しい彫刻家、造形作家たちの制作と発表の場を提供してもらおうと奔走したが、会社のPRにかかわらないものとしてそっけなくしりぞけられてしまった。しかし私の企画は社会的なPRとしてすこしも効果のないものとして、きびしく計量してしりぞけられたわけではないようであった。私たちの展示がどことなくわけのわからないもの、自分の小さな理解をはるかにこえているためにどことなくうさんくさいと思われたために、空間の切り売りを断わられたとしか思えないのである。
     しかもあきれたことに、個人的な好意としてならばポケット・マネーとして五十万円、あるいはそれ以上のおカネをだしてもよいというのである。もしも私自身が甘えて、目的を問わずにおカネをだしてくれといえば、おそらくすんなりと出してくれたにちがいない。新しい現代美術の造形にはほとんど興味がないが、おそらくは知的スノッブとしての性コンプレックスからか、その企画におカネをだしてもよいといわれて、私はあきれはててしまった。だが私が売りたいと思っているものと、このとんでる男が買いたいと考えているものとの間にはあまりにも大きな差がありすぎた。そのうえ私はとんでる男のわけのわからない慈善に甘えてすがりつくほど愚かではないので、この話を断わってしまった。
     私たちがもしも伝統的に安全な展示物だととんでる男たちに思いこまれている桃太郎とか、白雪姫などをつくって展示したとしたら、すんなりと切り売りの空間はあけわたされて、予算も入手し、雪まつりに加われたものと思われる。

  14. 吉田、前掲書、pp.104-113、pp.134-145、巻末「北海道の美術史(近・現代)年表」。
  15. 『札幌オリンピック冬季大会芸術行事総合プログラム』(財団法人札幌オリンピック冬季大会組織委員会編集発行、1972年)によれば、芸術行事は計13プログラム。
    「浮世絵名作展」
    「大冬季オリンピック展」
    「23回さっぽろ雪まつり」
    「NHK交響楽団演奏会」
    「北国の芸能」
    「日本の現代版画展」
    「札幌オリンピック芸術行事 写真展」
    「世界こども美術展」
    「ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団演奏会」
    「札幌交響楽団演奏会」
    「歌舞伎」
    「能狂言」
    「市民劇場バレエ」
    であった。このうち「日本の現代版画展」は、大会組織委員会と北海道テレビ放送(HTB)が主催したもので、棟方志功に始まり、靉嘔、池田満寿夫といった著名作家と、地元の主要な版画家が出品していた。
  16. 阿部典英宛チハーコヴァー書簡(1972年6月1日消印)より抜粋。

     来年は(筆者注――「の」か)雪祭りのことを色々調べてきましたので、その御報告をしたいと思います。
     まず、原則として、提案は私たちの方からしなくてはならないようです。それから、スポンサーと会場がまだ未解決。
    (略)それぞれの企画に対して貴方のご意見なり、アイディアを書いて、6月15日までに送っていただきたいです。

  17. あいちトリエンナーレ2019のプロジェクト「表現の不自由展・その後」が、抗議殺到により開幕3日目で中止に追い込まれた(展示はトリエンナーレの閉幕直前に再開)。単に先鋭的なだけでなく、政治性が極めて強い展示企画に理解が得られなかったことや、外交問題にまで発展したことから、展示を強行した主催者側の判断にも批判が及んだ。公的な空間で、公的資金(税金)を使って行うプロジェクトは「大多数の人に理解が得られるものにしなければならない」という不文律の呪縛は根強く、行政が展示に待ったをかける判断の是非も問われることになった。そういったある種のタブーに挑む意図が主催者側にはあったと思われるが、結果としては必要以上の「炎上」と混乱を招き、教訓を残した。

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