北海道の近世仏教美術史を編み始める ――「祈りの造形(かたち) 地域の記憶 厚岸・国泰寺の200年」を振り返って/熊谷麻美

北海道の近世仏教美術史を編み始める ――「祈りの造形(かたち) 地域の記憶 厚岸・国泰寺の200年」を振り返って/熊谷麻美
図1:「厚岸・国泰寺の200年」展入口(撮影:北海道立釧路芸術館。以下、撮影者無記名の場合は同)

 2022(令和4)年9月16日~11月23日、北海道立釧路芸術館では特別展「祈りの造形(かたち) 地域の記憶 厚岸・国泰寺の200年」(以下「本展」とする)を開催した。本稿は、担当学芸員である筆者が閉幕から約4ヶ月が経過した今、振り返って記すものである。

国泰寺について

図2:国泰寺外観(撮影:秋葉隆[藤田印刷株式会社])

 

 臨済宗五山派(現在は臨済宗南禅寺派)の景運山国泰寺は、幕府の命により文化元(1804)年に建立された、道東地域ではもっとも古い寺院である。当時、幕府の直轄地であった東蝦夷地では、この地で亡くなった人民を弔うため、そして南下するロシアの勢力に対抗するために、国泰寺、善光寺(有珠)、等澍院(様似)の3件の寺院の建立を決定した。「蝦夷三官寺」と称されるこれらの寺院は、関係資料が平成17(2005)年に国の重要文化財に指定されている。平成30(2018)年には「北海道遺産」に選定されており、観光の面からも近年あらためて注目を集めている。

 国泰寺の歴代の住職は鎌倉五山から輪番で選出され、遥か遠くの厚岸の地へと赴任した。彼らが書き綴ってきた寺務日誌『日鑑記』からは寺務のほかにも、厚岸を訪れた人物や到着した物品の記録、異国船の到来、疫病や天災の発生、畑作の成果なども知ることができる。この時期、東蝦夷地を訪れた探検家や役人らによる報告書や紀行文は複数知られているが、当地のようすをいわば定点観測して記した文献は貴重である。明治時代には既に『日鑑記』が「実に北辺広渺の地にして約百年前に遡り徴証するに足る珍品と云ふ可し」(「北海タイムス」、明治40[1907]年11月17日)と評されており、国泰寺は『日鑑記』を足がかりとして近世史や仏教史の立場から調査研究が進められてきた。

「江戸時代の仏像」と「北海道の仏像」

 本展で主に扱ったのは、北海道・厚岸の国泰寺に伝来する、江戸時代の仏教美術作品(仏像、仏画、什具など)である。「江戸時代の仏像」、そして「北海道の仏像」。いずれも「いまいち、イメージが湧かない・・・」という声が聞こえてきそうである。 

 日本美術史の教科書や概説書を捲ると、仏教の到来や東大寺の大仏建立に始まり、平安時代、鎌倉時代・・・と仏像の歴史を辿ることができるが、安土桃山時代に差し掛かったあたりから、仏像に関する記述が途絶えてしまうことが多い。しかし無論、近世期に造像が途絶えた訳ではない。むしろ江戸時代前半には寺院数の増加に伴い、膨大な数の造像、修復がなされてきた。数多くの仕事をこなす必要があった江戸時代の仏師たちは、挑戦的な造形表現よりも、大衆に受け入れられやすい定型的な像を目指した。次第に経済情勢が傾いたことで小型の像しか作られなくなったことも含め、仏像は江戸時代には花盛りの時を過ぎていたと捉えられがちだ。

 そして、多くの寺院の建立が明治期以降である北海道において、近世期以前の仏像の作例は東北以南に比べると圧倒的に少ない。古仏を鑑賞する機会といえば、大型の巡回展であろうか。最近では、本展とも会期が重なった「国宝・法隆寺展」(令和4[2022]年、北海道立近代美術館)、これ以前には「国宝 鑑真和上展」(平成18[2006]年、同館)など、誰もが知る古刹の寺宝が集う展覧会が開催されてきた。

 北海道内に伝来する仏像としては、円空や木喰の作例は比較的よく知られている。木の生命感と仏性が一体となるような造像は、現代の私たちも引きつけてやまない。筆者の住む道東でいえば、釧路市の厳島神社や広尾町の禅林寺に、いずれも寛文6(1665)の銘がある観音菩薩坐像が伝来している。道内の円空仏・木喰仏は「北の円空・木喰展 江戸の遊行僧=祈りの造形」(昭和62[1987]年、会場:北海道立旭川美術館、北海道立函館美術館)、「円空さん」(平成17[2005]年、会場:北海道立近代美術館、名古屋市博物館、仙台市博物館)で公開された1。殊に、道内に伝来する円空仏が名古屋・仙台で11点(札幌では12点)出品された「円空さん」は、一定数の北海道の仏像が道外で展示された、ほぼ初めての機会であったのではないか。

 一方、円空仏でも木喰仏でもない道内の仏像が展観されることは稀である。もとい、筆者はそのような前例を把握していない。寺社を訪れて拝観する以外に仏像、仏画と対峙することは難しく、郷土博物館等のミュージアムが仏像や仏画を所蔵・公開している例も寡聞にして把握していない。 

 「江戸時代の仏像」と「北海道の仏像」、いずれもこれまでにスポットライトを当てられることが少なかったジャンルと言えるだろう。しかし江戸時代は仏教が民衆化し、仏教の裾野が格段に広がった時代である。現在、全国各地で悉皆的な仏像調査が続けられており、成果が報告されている。江戸時代の仏像や仏画が教科書に載る日も遠くないかもしれない。

 江戸時代の仏教美術史が積み上げられている今、北海道という日本史上独特の道を歩んできた地においてどのような仏像が持ち込まれ、あるいは制作され、現在にまで伝来しているかを知ることは、江戸時代の仏教美術史の潮流のひとつとしても、そして北海道の近世史や仏教史をより深めるためにも、研究が進むべき分野であると筆者は考える2

展示構成

 本展は3章で構成した。展示作品は国泰寺、厚岸町海事記念館、厚岸町郷土館、函館市中央図書館、北海道立図書館から拝借したほか、当館コレクションからも出品した。

図3:本展第1章の展示風景(前期)
図4:本展第1章の展示風景(後期)より、秦檍丸〈東蝦夷地屏風〉第七隻(函館市中央図書館蔵)。第二扇に厚岸が描かれる。

 第1章「厚岸への道」では、地図資料を中心に展示した。国泰寺の歴代の住職らは、本州から派遣されて厚岸にまでたどり着いた。その遥かな道のりを感じていただいてから第2章で国泰寺の寺宝をご覧いただくというねらいがあった。

 秦檍丸〈東蝦夷地屏風〉(函館市中央図書館蔵)は、茂辺地村(現・北斗市)からノツシヤプ岬(現・根室市納沙布岬)までの海岸線沿いを、俯瞰で描いた六曲八隻の屏風である。一隻あたり横幅が約176cmあり、山川が広々と描かれる。時折、豆粒のような小ささで描き込まれる旅の一座の姿が、大地の広さをさらに実感させる。 

 作品保存の観点から第一隻3から第四隻を前期(初日から10月16日[日]まで)に、第五隻から第八隻を後期(10月18日[火]から最終日まで)に分けて展示したが、西から東へと移動して(つまり、左から右へと歩いて)、第七隻第二扇に描かれた厚岸が目に入ったとき、この地が東蝦夷地のなかでもとりわけ遠い場所であったことを実感させられた。

図5:本展第2章の展示風景。右から〈隻履達磨図〉、〈羅漢図〉、〈仏涅槃図〉、〈文翁和尚坐像〉(いずれも国泰寺蔵)。
図6:本展第2章の展示風景。右から〈燭台〉(厚岸町郷土館蔵)、〈大磬〉(国泰寺蔵)、〈小磬〉(厚岸町郷土館蔵)。

 第2章「祈りのよすが」では国泰寺に伝来する頂相や仏画に加え、什具、経典など、信仰の拠り所となった品々のうち、近世期に納められたものを展示した。国泰寺所蔵の仏画には、これまでに一般公開の機会がなかった作品も含まれていた。秘蔵されていただけに彩色が鮮やかに残っており、驚く来館者も多かった。また、必ずしも同じ空間に展示できたわけではないが、〈釈迦三尊十六善神像〉と『大般若波羅蜜多経』、〈仏涅槃図〉と『大般涅槃経』など、仏画とその所依となる経典を展示し、美術作品と文献・経典が結びつけることで、仏画が調度品としてではなく、信仰の拠り所として伝来していることを強調するねらいがあった。

図7:〈文翁和尚坐像〉(国泰寺蔵、撮影:秋葉隆[藤田印刷株式会社])

 〈文翁和尚坐像〉(国泰寺蔵、文化5[1808]年)は国泰寺の初代住職・文翁の頂相で、通常は国泰寺の本堂に安置されている。文化2(1805)年に厚岸に到着した文翁は、持病の悪化によりわずか5ヶ月後に急逝した。二代住職の代に制作された本像の背面には制作年のほか、3名の僧侶の名が刻まれているが、文献調査によりこの僧侶らは文翁に随行して厚岸に渡った者であることが判明した。本像は住職の交代に伴い彼らが厚岸を去った後に発願したものと考えられる。禅寺において開山住職の頂相を安置する伝統が、厚岸という遠く離れた地のために営まれていたことに、禅寺、そして官寺としての格式を窺わせる。

図8:〈仏牙舎利塔〉(国泰寺蔵、撮影:秋葉隆[藤田印刷株式会社])
図9:本展第2章の展示風景(前期)より、〈仏舎利授受之書〉(国泰寺蔵)。

 高さ約3メートル、石造りの〈仏牙舎利塔〉は写真パネルで紹介した。〈仏舎利授受之書〉(国泰寺蔵、文化2[1805]年・天保11[1840]年・弘化5[1848]年、前期のみ、国指定重要文化財)によると、初代住職・文翁が建長寺から譲り受けた「佛舎利三粒」ならびに六代住職・香國の代に円覚寺から伝来した「佛牙舎利」「一顆」が納められている。

 仏牙舎利塔は境内にあるが、昭和12(1937)年に現在の場所に移転建立する以前は約40m海寄りの位置にあった。江戸の北東、まさに鬼門に位置する国泰寺はロシアとの地理的な距離も近い。『日鑑記』からは、異国船が複数回到来していたことや、国家鎮護のための仏事が日常的に行われていたことが分かる。塔を建立することで、厚岸が仏法の及ぶ地であることを対外的に示す意図があったと考えられる。

図10:本展第3章の展示風景。右から白隠〈布袋・福禄寿蹴鞠図〉、〈楊柳観音図〉、〈釈迦三尊像〉(いずれも国泰寺蔵)。
図11:本展第3章の展示風景。手前は〈鬼板〉(厚岸町海事記念館蔵)、奥は〈六道絵〉(国泰寺蔵)全15幅のうちの一部。

 第3章は「近現代の国泰寺」と題した。倒幕、明治新政府の樹立によって仏教寺院は苦難の時代を迎えたが、江戸幕府が直々に建立した蝦夷三官寺にとっては経済の基盤を失うことと同義であった4。国泰寺は昆布の干場の経営や、学校が建つまで子どもに読み書きを教えるなど、地域との協同を模索し、地域の住民も檀家となって国泰寺を支えることとなった。人々との交流の中で国泰寺に寄進された仏画や書跡などを展示した。

図12:本展第3章の展示風景。手前は〈獅子頭〉(厚岸町海事記念館蔵)、奥は右から羽生輝〈北の浜辺(大黒島望、小島望)〉(当館蔵)、吉田初三郎〈厚岸町鳥瞰図〉(厚岸町郷土館蔵)、米内光政〈扁額 修練〉(国泰寺蔵)

 展示の終盤を締めくくるのは、現在も継承されている「厚岸かぐら」5の上演映像、そして本展示では唯一の当館コレクションからの出品となった、羽生輝〈北の浜辺(大黒島望、小島望)〉(平成8[1996]年)であった。

 厚岸町のキャッチコピーは「花と味覚と歴史のまち」。国泰寺、そして国泰寺を取り巻く自然や人々が、約200年から現在にいたるまで脈々と歴史をつなげてきたことに、思いを寄せていただく展示となっていれば幸いである。

展覧会を終えて

 会期中、来場者を対象に行ったアンケートでは、「道東に江戸時代の多くの資料があるのをあまり知らず、勉強になりました」、「国泰寺の貴重な資料を拝観できてありがたい」、「この土地ならではの企画を楽しみにしています」など、地域の歴史にフォーカスした展示内容について肯定的なお声を複数いただいた。また本展ではアイヌの人々と国泰寺の関わりについて掘り下げて解説できなかったが、そうした視点からの解説や、アイヌ文化を主軸とした展覧会の開催を希望されるご意見を多くいただいたことも印象的であった。 

 釧路・根室地域の芸術の拠点として1998年に開館した釧路芸術館は、コレクションのほとんどが現代の作品であり、展覧会でも近現代のアートを取り上げることが多い。本展のように近世の作品が中心となる展覧会を展示室(延床面積739㎡)で開催するのは「開館15周年記念 重要文化財『正行寺』 よみがえった襖絵展」6(2013年)以来で、フリーアートルーム(延床面積115㎡)では近郊町村の博物館等が所蔵する郷土資料による「〈わが町のお宝〉展」シリーズ(2015年:白糠町、2016年:標茶町、2017年:弟子屈町、2018年:別海町)、「鶴居村簡易軌道資料展示」(2019年)、「大漁旗展 つたえる、いろどる」(2020年)など、郷土の歴史を振り返る展覧会を継続して行ってきた。同時代の芸術の展覧と並行して、古くから伝来する作品・資料を調査研究・紹介する試みを継続していくことで、釧路・根室地域の文化的な厚みをさらに明らかにしていきたい。

 本展で取り上げた国泰寺は臨済宗の寺院であるため、開山住職の頂相〈文翁和尚坐像〉や〈隻履達磨図〉など禅宗ならではの仏画を展示できた。一方、同じく蝦夷三官寺の善光寺は浄土宗、等澍院は天台宗である。同時期に東蝦夷地に建立した寺院とはいえ、宗派の違いによって集う文物も異なるので、三寺に伝来する文物を比較することで、三寺の独自性、あるいは共通点が見えてくるであろう。

 また本展では全てを展示できなかったが、国泰寺には十四代住職・天門、十五代住職・智空による書跡も多く所蔵されている。書の分野からのアプローチによっても国泰寺、ひいては蝦夷三官寺に迫れる可能性がある。

 さらに、北海道の仏教美術史の全体像を見るためには、蝦夷三官寺に加え、道内で唯一、江戸時代に建立された寺院が集中している道南地域の作例の調査も進めなくてはならない。蠣崎波響による対幅の〈仏涅槃図〉(高龍寺蔵)など、独創的な作品も伝来している。「円空仏・木喰仏」、「蝦夷三官寺」、そして「道南の寺院の作品」を三本の軸として調査研究を進めていくことで、北海道の近世仏教美術史を編み始めていくことができるだろう。

 本展に係る調査研究は、公益財団法人ポーラ美術振興財団の助成事業に採択していただき、国泰寺に伝来・関係する資料を長年にわたって調査研究されてきた厚岸町教育委員会の成果に基づいて取り進めた。また、調査研究にあたっては国泰寺の全面的なご協力をいただき、共同研究者である小田島賢氏(厚岸町海事記念館学芸員)には特にお世話になった。貴重な機会をいただいたことに改めて感謝を申し上げます。

熊谷麻美(北海道立釧路芸術館学芸員)


脚注

  1. 北海道博物館で2016年に開催されたテーマ展示「神様おねがい!―地域と人をむすぶ祈りのかたち―」では、道内に伝来する信仰にまつわる資料が紹介され、円空仏のレプリカも展示された。
  2. なお、道内に伝来する仏像を取り上げた書籍には森川不覚編『北海道の仏像』全3巻(私家版、1959~1960年)、久野健『仏像集成1 日本の仏像 北海道・東北・関東』(学生社、1989年)、武藤晟造『仏像をたずねて1 北海道・東北・関東篇』(明治書院、1994年)などがある。2019(平成31)年には、寺島典人「北海道石狩市における仏教彫刻調査報告書」が発表された。
  3. 屏風は原則、右端を第一隻や第一扇として左へ向かって数えるが、本作の背面には左端の隻から順に「一」から「八」までの番号が振られているため、本稿においては通常とは逆向きに数えている。
  4. 江戸時代の蝦夷三官寺は檀家を持たず、幕府からの資金や寄進者からの浄財を収入源としていた。
  5. 江戸時代末期、南部地方から厚岸に渡った漁師たちが舞っていた神楽にアイヌの人々の踊りが融合したもので、『日鑑記』にも記録されている。厚岸町指定無形文化財。
  6. 正行寺は厚岸町にある浄土真宗大谷派の寺院で、明治12(1879)年に現在地に説教所が落成、翌々年から正行寺となった。明治42(1909)年、売りに出されていた新潟県西頸城郡西海村(現・糸魚川市)の満長寺本堂(寛政末~享和年間に建立)を購入し、明治44(1911)年に正行寺本堂として再建落成。平成4(1992)年には道東の建築物として初めて重要文化財に指定された。この展覧会では、本堂の襖絵と、日本画家・馬場良治(1949~)が平成20(2008)年に復元模写した襖絵を比較展示したほか、正行寺伝来の資料等を展示した。

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