poiein、あるいは旅の概念/町田理樹

poiein、あるいは旅の概念/町田理樹

 大阪で出版物の編集事務所を運営しております町田と申します。かつて大阪大学大学院の美学研究室に8年ほどでしょうか、在籍させていただいておりましたそのご縁から、こうして何事か書く機会をいただきました。研究者口調で何か論じようとしますと現役研究者の皆さまには到底かないませんので、私的なおしゃべりでおゆるしください。

 いきなり宣伝めきますが、昨年(2021年)の秋から、『たびぽえ』という名の旅と文芸の情報誌を刊行しはじめました。旅とポエジーをテーマとしていることからその名が由来いたします。こうした雑誌を企画しはじめた背景にはのっぴきならぬ(?)事情がありまして、それについて以下少々。

 

『たびぽえ』2022春号表紙

 

 日本語で「旅」と「旅行」の違いはなんだと問われれば、多くの方が前者のほうに何か人生的・感情的な価値を認めているように思います。対して後者は、たんに「比較的遠方へのお出かけ」程度の位置付けでしょうか。英語に置き換えるなら前者にはjourney、後者にはtravelやtripがあてられることが多いでしょう。ですが、前者が人生的といっても、後者の「旅行」「お出かけ」もまた人生の重大な一部であることに変わりありません。ではその決定的な価値の違いはなにか。そこにポエジーを見いだしたい。

 poésie〔仏〕/poesy〔英〕は、集合的に作品としての詩や詩というジャンルを指しもしますが、「詩情」や「詩趣」の意味でも使われます。日本人がカタカナ語で「ポエジー」というとき、この「詩情」や「詩趣」の意味で使うことが多いかと思います。poésie/poesyの語源は古代ギリシア語のποίησις(poiesis)で、この創作活動としてのποίησιςは、「つくる」という意味の一般的な動詞ποιέωの不定詞ποιεῖν(poiein)から派生した語です。すると、日本人が「詩情」や「詩趣」というときのその意味は、さしずめ「つくられたものの味わい」とか「つくられたものの在り方」といったところでしょうか。「旅」と「旅行」の差異にpoiesisを見いだそうということはすなわち、「旅」は自身の人生や歩みをまさに「つくる」活動なのだと言いたいわけなのです。

 ちなみに英語のjourneyは「旅」や「旅行」の意味ですが、語源が同じフランス語のjournéeは「一日」の意味で、英語のdayに近いようです(語源はラテン語のdiurnus)。ただし、jourがカレンダー的な単位としての「一日」を意味するのに対して、journéeには「一日の仕事」や「一日の出来事・行程」といった意味があるようです。たんなる単位ではなく、ここにもやはり一日という歩みを「つくる」というニュアンスを読み取ることができるのではないでしょうか。

 雑誌『たびぽえ』は、旅と文芸全般との関わりを視野にいれており映画やマンガ、演歌までも扱いますが、もちろん詩という文芸ジャンルも重視しています。詩は世間一般に、リズムや音韻など何らかの点で音楽的なものとの関連で語られることが多いでしょう。「何らかの点で」という最も広い条件付きであれば当たり前かもしれません。ところで現代の、詩に関わる多くの人は、詩が何らか音楽的なものとの関連において在るということの意味を、充分に考えているでしょうか。

 プラトンが言います。

 人は創作〔ポイエーシス〕の全領域からその一部を、すなわち音楽〔ムーシケー〕と韻律〔メトラ〕とに関するものだけを引離して、これに全体の呼称を与えています。実際これだけが創作(詩作)と呼ばれまたこの種類の創作に携わる者だけが創作家〔ポイエータイ〕(詩人)と呼ばれているのです。

(『饗宴』久保勉・訳)

 このプラトンの叙述だけをそのまままっすぐに受け取ってしまえば、次のことが読み取られます。古代ギリシアの当時すでに、何らかの音楽的な要素をもつものとしての詩が特別poiesisの名のもとに捉えられるようになっていたこと、そしてそれによって、poieinの真の意味が覆い隠されつつあったこと(をプラトンが指摘していること)、です。

 他方で、現代の私たちにとって、詩はいついかなるときも何か音楽的なものとして存在しうるのかといえば、もちろんそうではありません。「生きて」現前していないような詩は、それがいま目下「詩」と呼ばれるに値するかどうかは別として、少なくとも音楽的ではない。ある一篇の詩が人々に受けとめられ自身を実現・展開しているときにはそれは音楽的でありうるにしても、人々から受けとめられず自身を展開できない詩は、たんなる印字や落書き、おしゃべりやハタ迷惑なたわごとに過ぎません。poieinの意味がすっかり忘却されているところでは、どんな音楽的なものも無効であるのです。こうした場合の音楽的なものとは、エクリチュールかパロールかというような問題よりももっと深いところに位置する潜勢的なもの(δύναμις/dynamis)です。

 では、現代の私たちにとって詩は、いつ本質的に音楽的なものとして存在しうるか。

 旅において。おのれの道をpoieinすることとしての旅において。

 それが『たびぽえ』という雑誌に含み持たせたかった意味であり、制作サイドとして読者・執筆者、それから文学界に提案したいコンセプトでした(以上は私個人のコンセプトであり、編集部の関係者がみな同意見だということではありませんが)。

 

函館にて(撮影:藪下明博)

 

 さて、話かわって、最近発売されたばかりの『たびぽえ』第2号では、「港町ロマンティックス」という特集を組み、北海道・函館にはじまり横浜(神奈川)、舞鶴(京都)、神戸(兵庫)、門司(福岡)と、各地の港町の取材レポートを掲載しています。『たびぽえ』は実際に現地取材におもむいて“言葉さがし”することを基本スタイルとしており、広く取材原稿も募集しておりますが、東京や大阪から遠いこともあって北海道の取材をすることはなかなか難しい。北海道芸術学会の皆さまにも、ぜひご協力いただければと願っております。

町田理樹(ライター/編集者/美学・芸術学)

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